​カ レ

Interview with
Kazuha Fujii

​インタビュー|藤井 一葉さん

                                (任意団体 ワカゾー)

“死”を通じて多様な人と関わること

~死をカジュアルにかたる場[デスカフェ]~

2019.12.26

​文筆:中尾 まり 写真:中池 雄士

デスカフェ@京都で、よく使わせていただくお寺(明覺寺)

​そもそも「ワカゾー」とは

「豊かに生きるとはどういうことだろうか。」という問いに対し、今回インタビューした女性僧侶 藤井一葉(かずは)さんは「死を見つめつつも、生を見つめること」と、力強く答えられた。はっとさせられる言葉だった。

 今回、お邪魔したのは、『ワカゾー』という、8名の若い僧侶の方たちで構成される任意団体だ。「若造(わかぞう)」と「若い僧」を掛け合わせたネーミングになっている。藤井さんが、龍谷大学大学院生の時に出会った人たちと、このグループを立ち上げた。社会活動に熱心だった藤井さん、大学院生の時に「何か、やりたいことがある人、集まって」と声をかけたのがきっかけだった。大学院を修了すると、皆、郷里の自分のお寺に戻る、あるいは結婚などで郷里を離れることが多く、一緒に活動することは難しくなる。そこで今後も活動していくために、プラットフォームとしてできあがったのが、この『ワカゾー』だった。その後イギリスで〈デスカフェ〉―死について語る場―が、盛んになり、世界中に広まったことに刺激をうけ、是非自分たちもやってみたい、と思ったことで本格的な活動がスタートした。

お寺内にあるホワイトボード。毎月16日には〈いちろく市〉に出店

デスカフェがスタート

とはいえ、藤井さんもスタート時は不安だった。〈死について語る〉となると、どうしても暗くなりすぎるのではないかと危惧していた。しかし、そんな心配は無用だった。帰る時には皆、明るい表情で帰っていく。時に目に涙を浮かべる人もいるが、悲しみを呼び覚まされて、というより、感動して泣くことが多いそうだ。死生観の変化を体験し、「明日からまた生きる助けになった。」「今、何をしなきゃいけないか考えるようになった。」という感想なども寄せられるという。そしてこういう言葉が聞けた時、〈デスカフェ〉を始めてよかったと思える。

不定期に開催される〈デスカフェ〉開催場所は、京都駅に近い浄土真宗の明覚寺。僧侶たちが主催する、ということも参加者に安心感を与えて、参加者も毎回約10名、多い時には約20名も集まるそうだ。現在まで、開催した回数は約50回。述べ500人以上が参加したことになる。

 〈デスカフェ〉は、ワークショップ形式で、開催されている。初めて顔を合わせた人たちにその場に慣れてもらうため、アイスブレーキングから始める。弔辞のワークショップというものもあるそうだ。このように話しやすい仕掛けを盛り込んで、うまくデザインされたワークショップ形式によって進められていくことも、参加しやすく、語りやすい場を作ることに貢献している。

 参加者の年齢層は20代~40代が多く、男性より若干、女性の方が多い。会社員、主婦など多様な人たちが参加する。参加の動機は「身内など近しい人を亡くしたから」とか「転職活動をしている中で、考えることがあってここに来た」など様々だ。宗派を超えて、キリスト教を信仰している方が参加してくれたこともある。ある時、消防士の方が参加した。「人を助けようと思って、消防士になったけれど、火事で焼け死んだ人を見ることは、なかなか慣れない。上司に〈慣れるよ〉と言われたけれども、自分はそうなれない」と語られたそうだ。死を日常的に扱う看護師さんも似たような思いを抱いていることが多いそうだ。そういう〈忘れられたらいいけれど、どこかの瞬間で辛い体験がよみがえってくる〉そんな時に、その思いを話せる場がある、というのはどんなに心強いことだろうか。

 また、小学生の子どもを連れて参加してくれたお母さんの話もしてくれた。その方は子どもが〈死について考えていること〉を感じとり、一緒に参加したそうだ。そして、子どもが〈死についてどう考えているか〉ということを、第三者を介在した場所に参加することによって、知ることができて、本当によかった、と喜んでいた。

​※〈弔辞のワークショップ〉参加者が二人一組になりお互いをインタビュー。ニックネームはなに?など8項目あるシートに従って質問をする。聞き取った人がそれらを元に、相手の弔辞を作って読むのが一連の流れだ。

日本社会における死の捉え方とは?

藤井さんは、「まだまだ日本の社会では死は暗いものであり、話してはいけない雰囲気がある」と言う。日本が「多死社会」と言われるようになってから久しい。メディアでもそういう特集が組まれる。ただし、そこで取り上げられる多死はポジティブな意味合いを含まず、どちらかというと話してはいけないものとして扱われることが多い。社会課題としては、まだまだ死をタブー視しており、友人同士では話せないし、食卓でも話すことはできない。死について語ろうとすると、「そんなこと言うなよ」で済ませられてしまうことも多いが、そうすると大切なことが隠れて見えなくなってしまう。

一方で、「〈エンディングノート〉など、いわゆる終活のツールはあっても、気持ちがついていっていないのでは?」と語る藤井さん。〈ワカゾー〉はその入口に立って、わかりやすく、カジュアルに死を語る場を提供しつつ、真剣に語り合う場につなげていきたい、と希望を語った。

 そんな藤井さんに「死」を介しての、地域課題についても聞いてみた。日本は少し前まで、地域社会で「死」に関わってきた。お葬式も地域の中で行われてきたけど、今はひっそりと自分たちだけで済ます家族葬などが多くなった。それ自体は決して悪いことではないが、死が地域社会を結び付けることはなくなった、と藤井さんは語る。お寺という場所は地域に根づいているものだろう。お寺から見ると檀家は地域の人であるから、檀家や信徒たちがお参りに来た時だけ、死について話すこともあるそうだ。しかし、突然、自分あるいは家族の誰かが死を迎えるようなことになった時、その亡くなった人と周りの人たちは、死についてのお互いの理解をもう共有することができなくなってしまう。日頃から死に向き合っていれば、いざとなった時、自分がどうしたいのかを明確に示せるのではないか。また、藤井さんは、お寺をいろいろな催しで使ってもらって、もっと身近に感じてもらいたい、という思いも持っている。京都はお寺を催しで使いたいという意識が強いことが、大きな強みだと言う。そんな中で「死」をオープンに話し合うことができれば、と藤井さんは願う。「もっと〈デスカフェ〉が広がってほしい」という思いを持つ藤井さんは、つい最近、東京の曹洞宗のお寺に出張して〈デスカフェ〉を開催したそうだ。

本尊仏に向かって、手を合わせる動物のフィギアたち

これからのビジョン

藤井さんに今、ワカゾーとしてチャレンジしたいことがあるかどうか聞いてみたところ、「期間限定でもいいから、〈デスカフェ〉をイベント形式ではなく、常設カフェでやってみたい」と言う。あそこへいけば、死について気軽に話せる、という場が常時ある。死に限らず、哲学的なことでも、なんでもいいから議論できる場があれば、それは物事を真剣に考えたい人たちには嬉しいことだ。

 お寺でアメリカ人の中高生20人くらいに〈デスカフェ〉を開催したことがある。普段は明るくて、楽しい話しかしないような子たちが、熱烈に議論するのを見て、引率の先生も驚いたそうだ。「彼らにはワークショップなどのツールはいらなかった」と藤井さんは振り返る。若くても、すんなり議論の場に入っていけたそうである。日本人、アメリカ人問わず、その集まる人たちの性格にあった場さえ用意できれば、皆、語りたいのではないだろうか。

 最後に藤井さんに、読者へのメッセージを聞いてみた。「是非、デスカフェに来てみてください」とのこと。開催は不定期だが、FacebookなどのSNSで告知するそうだ。また、僧侶のひとりとして、「地域の人たちの視点もいただければと思うので、是非アドバイスしてほしい」とのことだった。地域に根付くお寺で熱く繰り広げられているデスカフェ。気軽に参加してみてはどうだろう。少なくとも、この段階では難しく考える必要はなく、楽しく死について語れるのだから。

ふじい かずは

法名では一葉(かずは)を“いちょう”と読む。1987年生まれ。兵庫県宍粟市出身。趣味は読書、テニス。休みの日には本屋を巡ることが大好き。好きな作家は村上春樹。

【任意団体 ワカゾー】 

〈HP〉https://wakazo-deathcafe.com/

〈Facebook〉https://www.facebook.com/ワカゾー-185059262037319/

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