​永松学区の様子

永松学区ストーリー

・860~70年、時の右大臣藤原良相が一族のものの中で自活できないものを養うために建てた建物のあったところである。
・豊臣秀吉が京都市中を守るために土や石で城壁を築き、その上に竹や木を植えました。このお土居は、永松学区の諸町をちょうど貫いたものであった。
・高瀬川が秀吉の命により1596~1615年に開削された。高瀬川の両岸には家や倉庫が立ち並び町地として開発されてきた。
・高瀬川で多くの物資が運び込まれ、中でも永松学区には材木や薪炭を扱う店が多かったのでこりき町とか材木町と呼ばれ、俗に木屋町と呼ばれた。
・船頭町は、高瀬川開通の際、船頭を募集してこの町に住まわせたのがその起源といわれている。

永松学区に住む人々の声

・ぼくたちが,思いきりボールをけって遊べる公園や広場がほしいです。(T・U/8歳)

・五条から木屋町に入ると,高瀬川,カワニナ貝を,繁殖させて,ホタルが飛ぶと云う夢を見ながら,歩いています。(MㆍA/74歳)

・永松小学校が有った時代,河原町にも魚屋さんや散髪屋さん等お店がーぱい有り繁昌

していました。今はマンションばかり,あの頃の繁栄が,なつかしい!(Y・N/50歳)

 

出典:

・下京区130周年記念事業実行委員会(2010)「下京区130周年記念誌」京都市下京区,27-28頁。

・平安時代は藤原兼盛、源善親などの貴族の邸宅があり、鎌倉時代の公家日記編纂書「百錬抄」には大宮通松原あたりに五条大宮殿が造られ仮皇居として用いられたとある。
・1685年刊行の地誌「京羽二重」には、古物商(岩上通り)、鍛治所(猪熊通り)、干魚問屋(黒門通り)、米穀商(大宮通り)などの同業の集まる町ができ商人職人の町として非常に賑わったとされている。
・京都府下唯一の夜間中学校「洛友中学校」を開校。老若男女、国籍問わず様々な人が学ぶ。
・天道神社の例大祭は毎年大盛り上がり。
・郁文少年補導委員会が「地域で育む子供たちの健全育成」のために親子三代交流お餅つき大会を開始した。年々盛り上がり、参加者は400名を超えるまでになった。
・商人、職人のまちとして賑わってきたが、近年はマンション棟が増えてきた。
・2015年京都環境賞「エコ学区部門」で「エコ学区推進賞」を受賞。

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